上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に恭順の意を伝えるよう交渉を頼んだ。
泥舟は信頼のおける人物として義弟の山岡鉄舟を推薦し、鉄舟は引き受けた。
鉄舟は友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、官軍の群れをくぐり抜け、駿府(静岡)に陣取った南洲(西郷隆盛)
の元に出かけた。
鉄舟が頼まれたことは「江戸城は平和裡に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜
を入城後の官軍がどうするか確認すること」などであった。
よく、勝と西郷の歴史的名場面だと言われるが、二人の会見は、実はこの駿府での西郷、山岡の下交渉で決めら
れていたことの確認であって、それほど緊迫した談判ではなかったはずだと言う見方がある。
勝海舟からの親書と同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとは言え剣客鉄舟の官軍参謀南洲との談判の方が
はるかに劇的であったというのである。
静岡市伝馬町に「山岡・西郷対面の碑」がある。・・・(一度、見に行きたいと思ってはいるが)
相対座する勝海舟と西郷隆盛の
両雄の姿が再現されている。
鳥羽伏見で破れ、いよいよ舞台を江戸
に移したが勝者、敗者が鮮明にされる
になってしまった。
この時期に両雄の構えから、お願いする
側、受ける側の立場の相違が見える。
幕末当時の繪圖が紹介されている。
海岸に面する"薩州"と表記された部分が
「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩蔵屋敷跡。
その屋敷跡の道路側が現在地である。
薩摩藩邸とも併せ"水野・松平・くるしま・内藤"等
の家紋入りの武家屋敷が同地に密生することが
読み取れる。
繪圖から、現在地からすぐのところに海岸線が
直ぐそこに迫っていることが判る。
この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から
守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある
場所である。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より舟で送られてくる米などはここで陸揚げされた。
現在は鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられ海までは遠くなったが、この付近は最後まで残った江戸時代の
海岸線である。・・・現地案内板より
戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いで破れた幕府軍は江戸に移るが、
時の勢いで官軍の総参謀"西郷吉之助"は「江戸を焼き払い、将軍慶喜をあの世に送り込む!」
と息巻いていたが、納められ、勝海舟と当地で江戸の無血開城の調印をおこなった。
◇イギリス公使バークスの説得
イギリス公使サー・ハリー・バークスが薩摩と非常に近い。
勝海舟は通訳官アーネストサトウを通じてバークスとしばしば折衝して内乱回避の重要性を説く。
当時の日本の貿易の主流は生糸であり、イギリスは貿易上の安定した市場として欠かざるべき、ものであった。
横浜の海外居留地に生糸が積み出されるが、日本の内乱により、生糸の積み出しに影響を与えると、イギリス
としても、好ましくない。
そんな背景から、イギリスを利用して内乱回避をバークスから薩摩に説得させたとも言われている。
◇水面下の山岡鉄舟の活躍
4)無血開城の説得工作
3)レリーフ
2)高輪邉繪圖(現地盤碑から)
1)田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革図
1.江戸開城會見の地(田町)