イギリス公使館パークスの斡旋で駐日イギリス公使館の医師ウィリアムウイルスは外科病院の責任担当者
として任命され赴任する。
搬送される負傷者は銃創が多く、 当時の日本医学は銃創(じゅうそう)を治療する技術が未熟であったため、
医官ウィリアムウイルスが各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士治療にあたった。
銃創とは鋭器損傷の一種であり、銃弾が高速で人体を侵襲するだけでなく火薬,ガス等も 関与し独特な
成傷機転をもつものである。治療は クロロホルムを使用して手足を切断するなど本格的な外科手術を行わ
れるなどウイリスの活躍の場 となった。ここにはウイリスの他、イギリス公使館医師など数名が働き、日本
側の医師団も頭取、次席医、御傭医、御雇手当、各藩医、見習医からなり最多時は60名を越えたと言われ
ている。
その治療成果はめざましいものの、一方では亡くなる者も多く、薩摩藩の23名を筆頭に長州6名、土佐6名、
因州6名その他12名となっている 。長州、土佐両藩の死者は久保山墓地に葬られている。
戦いの終局時期に会津若松城の落城が近づくと軍陣病院は江戸下谷泉橋の津藩邸へと移転していき、これ
が旧幕府の医学所を含めて大病院となりやがて東京大学医学部へ発展していく。
□野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
現在の老松中学校。かっては官軍の横浜軍陣病院があった所
当時の官軍側の病院が此処、横浜軍陣病院が治癒にその役割を果たしていたが、一方では旧幕府軍の病院
は神田泉橋御徒町の医学所と浅草稍福寺が上げられる。
戊辰戦争で武器の近代化は殺傷能力の強化を生み、官軍、旧幕府軍共、甚大な犠牲者を生み、一方では治療
方法もそれに合わせた技術を外国から学ばなければならなかったが、外科の技術は戊辰以降も引き継がれた。
医官ウイリアム・ウイルス
アイルランド生まれ、文久元年(1861)駐日イギリス公使館の医師で
25歳で来日した。
巨大な体躯の持ち主であったようであるが強い義務観念の持ち主
として、イギリス公使館パークスの斡旋で外科病院の責任担当者
として任命され、軍陣病院で活躍した。
病院勤務に飽き足らず戊辰戦争の最前線たる東北戦争にも従軍し、
越後高田、、柏崎、新発田、会津若松と足をのばし、我が国の軍医を
指導すると共に戦傷者の治療を敵味方の区別なく当たった。
我が国の西洋医学の導入に一役かった人物の一人である。
横浜の軍陣病院はこの大病院の分院となり、軍関係以外に一般の人々も受け入れ治療したが戊辰戦争が
終了した明治2年(1869)、にはその役割も終わり遂に閉鎖となる。
その後、この病院で治療を受け、恩恵に欲した住民から新病院を求める声が上がりを太田町に仮病院が建
設され、横浜市中病院もしくは共立病院と呼ばれたが、満足出来なかった。
資産家の協力により資金を集め、病院の施設を整え一新される。
明治6年(1873)再び当地の修文館跡に移転し「十全病院」と改められ、以後70年余り横浜市民に親しまれた。
西洋の近代的な病院施設は当時の文明開化の象徴的なシンボルとして光を浴び、西洋医学の基盤となった。
◇病院開設の背景
慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年
(1869)
5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野
戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東
征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の
負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
この病院の主な目的は奥州若松、白河、棚倉、今市、相州小田原など戊辰戦争で負傷した新政府軍兵士
の治療であった。
負傷者は開院前に7名が来ており、以後負傷者はうなぎのぼりに増え、9月には負傷者数は207名にも達
している。
患者数は増加の一途を辿り、収容限度を越え、横浜軍陣病院として改修した野毛の修文館だけでは収容
しきれず、野毛山下の太田陣屋の伝習長屋も使用された。
◇医官ウィリアムウイルスの活躍
◇終戦と共に閉幕したが、新病院として当地へ
明治6年以降の「十全病院」
「横浜」今昔 荒井保男著「十全病院物語」から引用