四谷・勝興寺
四谷左門町にある"勝興寺"と言っても、恐らく余り知られてないお寺であろう。
これから紹介する「首切り浅右衛門」の墓があるお寺である。
新宿区の史跡巡りでのコースで同寺も挙げられたが、区内に住む人も知らなかったようであり、極限られた
専門家が知る寺の部類であろうが、一度確かめたい所と思っていた場所であった。
首切り浅右衛門
山田浅右衛門家は将軍家の刀の切れ味を試す「御佩刀御様(ごはいとうおためし)御用を代々勤めそのかたわら
斬罪人の処刑を行う「打ち首 同心」の代役も代々世襲していた。そのため当主は「首切り浅右衛門」と呼ばれ
維新後も他の中堅以下の同心同様に新政府の指揮下に入り、家業を続けていた。
明治3年(1870)12月26日 奥羽越列藩同盟のオルガナイザーの一人で詩人として知られる雲井龍雄(27)の斬首
刑に当たったのは八代目浅右衛門・山田吉富(32)の弟で、最後の浅右衛門と呼ばれた吉亮(よしふさ)(17)である。
最後の浅右衛門、吉亮
死体から売薬「人丹丸」「慶心丸」
山田家は罪人の死体から、脳味噌、胆嚢、肝臓、陰茎をもらい受け、乾燥などの処理して
薬として販売していたのである。
特に肝臓から作った「人丹丸」「慶心丸」などと呼ばれる薬は結核の特効薬と珍重された。
この売薬の利益は莫大で身分として浪人にすぎなかった山田家は万石の大名に匹敵する
と言われ、生肝の信仰が山田家の経済を支え同時に人を不気味がらせた。
奇怪な噂
家業から奇怪なうわさも多く、山田家には夜な夜な幽霊が現れるので、夜通し灯を付けて
酒盛りしているとささやかれた。
吉亮自身は人を斬った後は「顔がポーッとのぼせ」「血に酔う」ので夜通し酒盛りして騒いだり
した。それが噂となって世間の人が曲解して、浅右衛門が怨霊に悩ませていると言っている
のであろうと、語っている。
友野義国と言う少年が浅右衛門宅に泊まった時ポタポタと言う音で夜半目をさました。
雨でなく。これが幽霊の足音かと思うとそれっきり眠れなかった。
夜が明けて雨戸を明けると軒端に吊るされた袋からどす黒い血がしたたり落ちていた。
袋に入っていたのは人の肝だった。
その後
雲井龍雄の肝は同年4月15日、人丹、脳髄などの販売禁止令により薬にならなかった。
同時に試し斬りも禁じられ、吉亮は単なる「斬首役」でしかなかった。
明治14年8月吉亮は斬首刑の廃止により「市ヶ谷監獄署書記」を拝命し、翌年依頼退職した。
しかし、人の生ギモと縁が切れた時「首切り浅右衛門」は伝説の人物になったと言われる。
明治44年没
土方歳三の刀「葵康継(あおい やすつぐ)」は首切り浅右衛門吉豊とその弟在吉の二人が試し斬りをしている。
誰にも言いたくなかったとっておきの話・・・釣洋一さんの話と「聞きがけ新選組」から引用する
<その事実について>
土方歳三の刀、葵康継(あおいやすつぐ)裏銘のことは「聞きがけ新選組」(著者佐藤章)で以下の様に紹介されている。
(慶応4年甲州勝沼戦争で破れ、井上家で官軍に追われる佐藤彦五郎と息子源之助対面した後)
〜明け方近く祖父(彦五郎)出立。砂川街道を廻って江戸へ入り、忍び込んで、向島に潜んでいる近藤、土方を尋ねて、
一族赦免の件を相談した。ここに一夜を明かして、別れ帰らんとした時、土方はしばらくと留め、所持の愛刀をひと振り
出して、源之助が逮捕されては、刀も分捕られたろう可哀相に、これを代わりに与えたいと。祖父もまだ刀は官軍から
戻されたことは知らなかったので、この土方の心からの贈物を嬉しく思い、貰って帰った。この刀は葵御紋の康継にて、
中子には左の如くきってある。
表に紋 「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」
その裏には何と試し斬りされた事実が以下の様に残されてある。(次葉紹介)
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