□板橋刑場
近藤勇悲しみの末路
幕末は戊辰戦争の烈しい戦いの末で雌雄が決まって行った。
その争いの結果、勝者、敗者の色分けと同時に勝者の奢り昂りが非情なまでに走り、想像以上に醜い結果を生
み出してしまった。
慶応4年(1868)4月25日、戊辰戦争で愈追い詰められた幕軍の雄、新選組も甲陽鎮撫隊として、甲府城乗っ取りを策すも、
甲府城を見ずして勝沼の柏尾山大善寺前の一戦で官軍に破れたのち、下総流山まで落ち延び、遂に官軍に投降した近藤
勇が江戸日本橋から3里の中山道の第一宿板橋の庚申塚の野っ原で斬首される事になった。
新選組の活躍する格好良さの一方では徳川幕府の終焉を告げる格好の宣伝材料とされてしまった、
この悲劇は板橋や上石原の菩提寺龍源寺の墓地を見学する上で、忘れてはならない歴史的な事実である。
1)断罪執行の主役
文久3年(1863)から新選組局長として京洛にあり、公武合体しての攘夷論者
で身命を賭して幕府のために戦ってきた。
死を持って徳川将軍の恩顧に報いる"赤誠"の念で、新選組の隊旗に「誠」の一
字にしたためる生きかたを貫いた。
仮に勇が甲府城を乗っ取り、幕軍が全面的に官軍を討ち破れば一廉の大名に
なったかも知れないが、乱世の世界では敗軍には情け容赦なかった。
勇の斬首については彼の"赤誠"を重視して、官軍の中にもこれを不当と訴える
人がいたが、
土佐出身の谷千城は坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺されたのを勇
に率いられた新選組の仕業と思い込み、大軍監の職権を笠に、強力に主張して
遂に死刑を執行した。
その坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺された"近江屋"で闇に消えた刺客団は未だに
不明であり、新選組と決めつけ、無理やり処刑は谷千城の復讐的感情に基づくも
ので、当時から批判の中で進められたものである。
謎めいた"近江屋の変"がこんな所にも歴史の影を落としている。
2)近藤勇の養子"勇五郎"の前での処刑
勇五郎は勇の長兄の宮川音五郎の次男で時に18歳。勇と妻つねの間に生まれた一女"たま子"(当時7歳)と将来夫婦と
なるべく、養子になっていた。勇五郎は板橋の問屋場に監禁されているとの噂で様子を探りに4度目の此の日「今日は
立派な旗本が切られそうだ」という噂を小耳にはさみ「父がやられる」と直感したそうである。
・・・・昭和6年、勇五郎が語った思い出話(子母沢寛・新選組始末記)
間もなく30名ばかり鉄砲隊に前後を厳重に守られて、一挺の山駕籠が担ぎだされ騎馬の隊長らしき人物も一人従ってい
る。駕籠には推察通り顎鬚が少し伸びた勇が乗せられており、しかも牛込甘騎町の屋敷で見慣れた亀綾のあわせをま
とっていた。一行の後につき従って行くと、庚申塚の櫟林の横の原には既に屍体を埋め込むためのの穴が掘られ、その
前に新しい筵も敷かれている。
勇は駕籠から出されると最後に臨んでまず髭をあたった。
3)斬首の太刀取り
斬首の太刀取りは二人用意され、その中の一人が「やっ」と言うと一太刀で斬っ
てしまう見事な腕前であった。覚悟して端座している者の首をはねるでさえ難しい
ので、近藤斬首の太刀取りに予備の若侍が待機していた。
最初の太刀取りが太刀を振りかぶっているすぐ後ろに、若い方のがまた刀を抜い
て、足を踏ん張って付いていた。
もし初太刀が斬り損じたら、すぐにこの人がこの太刀を入れる手順だったんで有り
ましょう。・・・勇五郎談義父の
最期を勇五郎は冷静に見ていた。
その最初の太刀取りは美濃国(岐阜県)揖斐(いび)で5300石を領しながら官軍の
東進にいち早く寝返った直参旗本、岡田の家来で手代を勤めていた横倉喜三次
なるもので、藩の師範役を勤める手練(てだれ)であった。
4)処刑後の姿
横倉喜三次によって斬り落とされた勇の首は拾い上げられ新しい
手桶で洗い清められている。
此処迄の様子を見届けた勇五郎は上石原の勇の生家宮川家に急を
つげるために踵(きびす)を返した。
首級は板橋の一里塚に以下の一文が記された高札が用意され、
晒された 。
近藤 勇
右者(みぎは)元来浮浪之者にて、初め在京新選組之頭を勤め、
後に江戸に住居いたし、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山
において官軍に手向ひいたし、
或いは徳川の内命を承り候等と偽り唱へ、
不容易企(よういならざるくわだて)に及び候段、
上は朝廷、下は徳川之名を偽り候次第、その罪数ふるいに
暇(いとま)あらず、よって死刑に行い、梟首(きょうしゅ)せしめる者也。
公武合体しての攘夷論者で身命を賭して幕府のために戦った
勇にしてはこれは甚だ不本意な高札だったであろう。
横倉喜三次