◇新選組始末記より
◆最後の日

この日は、前日夜中まで雨が降った後の晴れ上がりで、一寸歩くとすぐ汗が出る位
に暖かい日であった。青い空が何処までも続いて、武蔵野らしい草の香が流れてい
たという。問屋場付近に行くと、
「今日は旗本が斬られる」
と言う噂を耳にした。
私は、ははア父がやられるなと直感しまして、あの辺をうろうろしていますと丁度
昼頃に山籠が一つ出てきました。籠の前後を三十名許りの鉄砲隊が厳重に守って、
隊長らしいのが一人騎馬でついています。
胸をどきどきさせて籠の中を良く見ると正しく父に相違ない。
顎ひげが少し延びて、いくらか青い顔になっていますが、思ったより元気で、黒の
紋付き羽織に亀綾の袷、胸のあたりに網の目のように縄がかかった
ように思います。
その籠にどんどんついて行くと、庚申塚のある櫟林の横の原っぱのところで、も
うちゃんと穴が掘ってあって新しい筵が敷いてありました。ここで籠が止まって父
は静かに下りましたが、莚の上に突立って、帯のところへ手をやって、しばらく江
戸の空を見ていました。どうした訳か素足だったことをよく覚えています。
何か二言三言。
傍の武士に話していましたが、少しするとお急ぎで人足らしい者が道具箱を下げて
飛んで来て、其首穴の前のところで、父は月代からひげを剃らせました。
それが済むと「ながなが御厄介に相成った」という声がはっきり聞えました。
刀を持って後ろに立っている首切り武士は、少し痩せぎすな四十一二歳位の人で、
父が、もとどりを自分でこう前の方えもち上げると、やがてぴかりととしように思
いましたが、私はここまで見て一目散に駈け出しました。

それから五里余りの道を飛ぶようして上石原へ戻って、一同まア嘆き悲しんだの
ですが、追々親類などもやって来て、さて死骸をあのままあんなところへ埋め
て置くのは可哀そうだ、こりゃ何とかして手に入れて、こちらの方へ葬りたいと
いろいろ相談の結果、それから三日目の夜に、私をはじめとして、兄の源次郎(音
五郎の子)、分家の宮川弥七(新選組討死者宮川信吉の兄)の四人で父の死骸を貰い
に行ったのです。
これは田安家の家来で寺尾安次郎という方の取りなしです。
番人に金三両程やりまして暫く首のない勇の屍を堀り出し、これを棺桶に入れ、
駕籠で夜の中に戻って来ました。

只今、菩提寺の竜源寺三鷹村大沢にあります「近藤勇之墓」という小さな石碑が即
ちその屍の上へ建てた墓でございます。(近藤勇五郎翁談)


◇石山家の口伝
今日あの有名な、新選組隊長の打ち首が行われる。
この日の出来事を石山亀二翁が曾祖父・祖父・父から石山家の口伝として語った資料
が残っている。
石山家は中仙道滝野川三軒家の旧家であり、亀二翁は昭和61年76歳で亡くなっている。
勇は4月24日石山の生家まで籠で来ている。縛られておらず、真新しい白衣を着て、
少しも取り乱した様子もなく、実に物静かで、夜風呂に入ると八畳間で休んだ。
勇は夜、髭を剃りたいというので、ひげそり道具一式貸した。

処刑当日の25日、曾祖父が着替えを手伝い、近藤は百衣を着て刑場に送られた。

処刑の後、近藤の胴体は埋めたが、本陣から盗まれる恐れが或るので、至急他所へ
埋めろと命令がきた。私の曾祖父や田口家、戸部家など旧家の人々が近藤の遺体を
を掘り出して石山家の庭の一隅に埋め変えた。

刑場は夜かがり火を炊いて曽祖父始め多くの人達が見張り番をしていたので刑場には近づ
けない。曽祖父始め誰一人、一銭一厘も貰っていない。
◇食い違う事実
新選組始末記の勇五郎談と石山家の口伝はその様子がかなり食い違いっている。
相違点 勇五郎談 石山家の口伝
下着 亀綾の袷 真新しい白衣
取り縄 網の目のように縄がかかった 縛られておらず
ひげそり 当日、ひげそり 前日、ひげそり
処刑後の埋葬場所 三日目に〜暫く首のない勇の屍を堀り出し 近藤の遺体をを掘り出して石山家の庭の一隅に埋め変えた
礼金 金三両程やり 一銭一厘も貰っていない
石山家の口伝が正しいとなると、25日に勇の遺体は石山家の庭の一隅に移されている。
3日後の28日勇五郎達が番人に案内されて、刑場の勇を掘り起こしたという話しが怪しく
なってくる。
何方が正しいかは専門の方の研究に委ねる事としたい。
毎年命日には板橋の勇の墓は寿徳寺のお導師で供養の花を上げているようである。
それもこれも、昔から勇の胴体が此処にありと言う人々の気持ちから、繋がっている。
近藤勇の最後
慶応4年4月25日、板橋で遂に処刑された。
その様子と後始末が近藤勇五郎が昭和5年に語った記録と、近隣の石山家の口伝が残されている。
新選組の顛末を迎え幕末史の大きな分岐点となる大事件として、残される記録から辿ってみた。
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