1.沖田総司終息の地
沖田総司終息の地は千駄ヶ谷説と今戸(台東区)説と二説あり、何れを取っても決定づけられるもの がないが、今後もその論説は続けられるだろうと考えられる。
その二節とは
諸説 その出展は
1)千駄ヶ谷説 殆どの作家は沖田総司の終息地は以下の記事を使用している。
子母澤寛の「新選組始末記」中央公論社版の記事から
「新選組の一番隊長を勤めた沖田総司は、新宿御苑の前通りになっている千駄ヶ谷池尻橋の際に
あった植木屋の平五郎と言う納屋に隠れていたが、慶応4年5月30日、年25で、この納屋で死んだ。
宿主の平五郎は、本所辺りの旗本屋敷へ出入りして、多少の扶持米を貰い、裕福な暮らしであ
った。」
2)今戸(台東区)説 故永倉新八翁13回忌に配布された翁の「同志連名記」の記事には
「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」とされている。
2.歴史家・研究家のそれぞれの意見
1)千駄ヶ谷説論 新選組研究同人、野口達男氏の"千駄ヶ谷"説が以下のように報告されている。
平五郎宅の発見、更に新宿区住吉町の「安養寺」の平五郎の略歴が刻された碑文を発見した。
平五郎に関する略歴はこの碑文でほぼ子母澤説に一致する。
更に平五郎の近い知人たちだけに、沖田総司が居たという話が語り継がれていることが、報告
されている。
当時の世相から、賊と見なされ、維新政府に判明したら、どんな処罰を受けるも知れず、公に
することが出来ず、戊辰60年を経過してから、ボツボツ語られ始めた。
子母澤説の"千駄ヶ谷"を信じて疑いを持たない。
というこで報告されているが・・・個人的にも納得してしまう。
2)今戸(台東区)説論 作家の遠藤幸威(ゆきたか)氏は"今戸"説が以下のように報告されている。
弾左衛門家は大きな屋敷で大金持ち、今戸に居れば一家が何でも面倒を見てくれる。
そう言う大金持ちが称福寺と今戸神社を野戦病院にし、鳥羽伏見の負傷者と近藤、沖田の
面倒みていた。
総司のみ隔離するため今戸焼きの釜場に移動したが、沖田の面倒は谷集がみているのに
死期の迫った男を駕籠に乗せて、四里近くの千駄ヶ谷に運ぶ必要があるのか。
「新選組始末記」にある植木屋の平五郎の納屋の終息場面について子母澤先生は
ーこの話は、介抱の老婆が、後に沖田林太郎に語った実話である。
とわざわざ(実語)と断っているのが気になる。
「新選組始末記」を取材された当時の子母澤先生は事実以外の報道を許されない新聞記者で
あった。
考えようによっては、亀岡町の隣の今戸はある理由で、野良猫や野良犬がいなかった。
そこで先生は黒猫書きたさに、創作欲にかられ、新聞記者らしくないアンチ・テーゼ
な姿勢を採ったのではあるまいか。
3.千駄ヶ谷の探索
等々色々諸説がある様だが、私としては"千駄ヶ谷"説を信じ、その現場について探索してみた。
1)明治末年頃の千駄ヶ谷の土地地図
土地(信濃町)の古老がかっては腕白時代に遊び場となった明治末期頃の渋谷川を中心とした地図を引っ張り出してみた。
・・・・横山秀明氏「昔の子供たちの遊び場」から
渋谷川は大木戸から新宿御苑沿いを伝わって、内藤神社(多武峯神社)の近くを通って池尻橋に通じる。
道(現外苑西通り)を潜って、対岸の深んど(深み)に出て、四谷第六小学校沿い脇を通って、JR中央線を潜り、
外苑側に流れる。

この渋谷川も現在は埋設されて
いるが、所々にその川跡を確認
する事が出来る。
この渋谷川沿いの新宿御苑は
内藤駿河之守の屋敷であり、生
い茂る木々はそのまま当時の状
況を残している。
また四谷第六小学校や隣の慶応
病院は当時、軍の弾薬庫などの施
設が雑木林の中にあった。
池尻橋の上手には水車が何台か
掛かって米搗き用に使われていた。
さてこの池尻橋近くの川沿いに植木屋屋の平五郎の納屋があった
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