今戸神社・稍福寺に総司を追って
新選組で一二を争う人気者は沖田総司と言われているが、沖田の事実を示す記録が全く少ない。
肝心の出自や何処で亡くなったかも、諸説有り、発表される記事を色々読んでいく過程でご説
ごもっともと思われるが、一方では否定する解説もあり、歴史考証と称して調査記事が多数駆
けまわり、賑わしているが、ともかくグレーに包まれた人物である。
そんな背景の中で当サイトも沖田総司終息の地について、植木屋平五郎に匿われた千駄ヶ谷節
と浅草今戸節を紹介し、千駄ヶ谷(四谷大京町)の現地に赴き、以下で報告した。
沖田終息の地
今回、宮川豊治(近藤勇末裔)さんが主宰される勇談話会の行事で、今戸神社とその周辺に自ら
ご案内されることで、参加した。
当日は案内役の付添いか、新選組を語りでは、今や引く手あまたの伊東成朗氏も加わるなど豪華
なメンバーの参加での史跡巡りであった。
◇今戸八幡宮神社
鳥居の両脇にきらびやかな青色の看板は
新選組のダンダラ模様地に「沖田総司終焉の
地」が表記されてあった。
時代の経過を物語る風格ある、神社の前に
派手な看板は異彩を放っていたが、これも
新選組ブームに乗った看板なのであろうか?

☆今戸の野戦病院と新選組
慶応4年1月に松本良順は幕府から呼ばれ、鳥羽伏見の戦いで傷ついた隊士が江戸に帰ってくる
ので治療して欲しいと言う旨の依頼を受ける。
今戸の神社の境内の隅に自分の宿舎を建て良順は住み稍福寺に病舎を作って陸軍病院(野戦病院)と
して、自分の所に居る患者達も一緒に連れて其処に移し、良順は病舎と宿舎間を往復した。
慶応4年鳥羽伏見の戦いで破れた新選組は富士山丸で江戸へ引揚げ、品川の釜屋から、神田和泉
橋御徒町の医学所、更に稍福寺の野戦病院に運ばれ 、近藤勇と沖田総司は松本良順の手当てを
受けたと思われる。
トップへ 次へ>>
浅草寺の菩薩は浅草の観音様と知られる。
浅草寺と雷門を通じる仲見世は海外含めた観光客も
訪れ、何時も凄い人並みである。
雷門では手っ甲脚絆の独特のスタイルで人力車の
集団が待ち構え、利用客との交渉やら、客待ちなどで
只でさえ混雑する所に、加え人並みでごった返す。
この仲見世通りから、隅田川沿いに一歩外れると
雑踏は無くなり、静かな市街地に入る。
この隅田川沿いの道を北に進むと、目的の岩戸
八幡宮に到着する。
◇仲見世の雑踏から