場所:伝馬町
大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれて居る場所供養の
ために建てられた「延命地蔵尊」がある。
台座部分に山岡鉄舟筆に「為囚死群霊離苦得脱」と記された
鋳物額がある。
安政5年9月から同6年12月までの1年3カ月の期間が即ち安政
の大獄で鈴木三樹三郎など 50余人を獄に下し、その殆どを刑
殺した。
◇死刑場
十恩公園内の一角に吉田松陰終焉の地の碑がある。安政6年10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰
は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。
「今吾れ国の為に死す、死して君親に背かず悠々たり天地の事鑑照明神に在り」
次いで刑場では「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」の歌を朗誦して従容とし
て刑についた。
朝幕府の評定所は死罪を告げた。獄舎の廊下で裃紋付のまま縄にかけられ、獄内の刑場にひきだされた。
首切り浅右衛門こと山田浅右衛門が三尺の野太刀によって執行した。
松陰 行年30歳であった。
□伝馬町牢屋敷跡
伝馬町牢は慶長年間。常磐橋際から移って明治8年約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送り
として入牢した者は数十万人を数えたと言われている。
村雲別院、十恩小学校(廃校)、十恩公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積2、618
坪 で土塀を廻し堀をめぐらし南西部に表門、北東部に不浄門があった。
牢舎は揚座敷、揚屋、大牢百姓牢、女牢の別があって 揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は
婦人のみであった。
公園内には「石町(こくちょう)時の鐘」がある。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と江戸市中に時刻を知らせ
ていた。一方では処刑もこの鐘を合図に執行されたとも言われており、それぞれ色々な立場でこの鐘の音を聞
いている。
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大江戸の伝馬町牢屋敷跡には生生しい処刑場所跡など残され
ている。
大量な処刑の中に、安政の大獄で散っていった獅子たちも
此処で露に消えた。
山岡鉄舟の痕跡が此処でも、遭遇したが、その影響力の大きさ
を改めて関心する。
十恩公園(牢屋敷跡)
(十恩公園と共用)
◇吉田松陰処刑
◇大石鍬次郎処刑
新選組は御陵衛士の伊東甲子太郎を殺害した。何時も新選組の殺人現場に名を連ねたのは「人斬り鍬次郎」
と言われた大石鍬次郎が殺害した一人であった。
明治3年(1870)旧御陵衛士の仲間に騙され兵部省に更に刑部省に送られる。拷問が加えられ坂本竜馬の殺害
まで尋問されたが、竜馬は見回組であることで、大石は無罪となったが、伊東甲子太郎の殺害事件で死刑の
判決が下される。
伝馬町の牢で最期の日を迎えるが、当日の刑の執行は大石と横井小楠を暗殺した尊攘派4人であった。
最初の一人、上田立夫(たてお)が横井と自分の関係者の処置がどうなるかを知るまでは罪に服すことは出来な
いと大声で申し立て 、検分の巡査属の役人は戸惑ってしまった。
刑の執行を遅らすわけにはいかず彼等を後回しに大石を先に処刑してしまおうとした。
すると大石も大声で申し立てをした。
事件当時、幕府は大政奉還を行っていたとはいえ、警察権は朝廷から委任されていた。伊東の殺害という新選
組の行為は公務であり、公務の執行を命じられ、それを実行したことによって処刑される謂われはない。
とその理不尽を何とか訴えたに違いない。
既に辞世まで用意され急に命が惜しくなったわけはないだろうが、そんな騒ぎが誘発された。
勿論、それが受け入れられることなく、大石は33歳の生涯を此処で閉じた。