範之介は神田お玉ヶ池のほとりにある北辰一刀流の玄武館に入門した。
何時入門したかわからないが、恐らく千葉周作の亡くなった前後と推測される。
千葉周作は安政2年(1855)62歳で亡くなり。周作の長男も寄蘇太郎も同年亡くなり、次子栄次郎に剣術を習った。
何故、急に天然理心流から北辰一刀流へ、剣術を乗り換えたか不明である。
範之介はよく剣術試合に各地流派の道場を訪れている。鎌倉郡平戸村直心影流
、萩原道場もその一つであり、剣
客録に記録が残されている。
そこには真田範之介と記録されており、小峰家から他家へ養子に行き、小峰軍司からに真田範之介に改め北辰一刀
流に入門したものと考えられる。
安政7年(1860)3月、松崎和多五郎は牛沼山王社(秋川神明社)に天然理心流の大扇額を奉納しており、客分として
真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っている。
以上の通り、範之介が北辰一刀流に移ってからも、天然理心流とは深い絆で結ばれていた。
□北辰一刀流、玄武館への入門
範之介の師でもある栄次郎は俗に「千葉の小天狗」と呼ばれ父以上の腕を持っていたが、文久2年(1862)に30歳の
若さで亡くなった。
めきめきと腕を上げ、その後を継ぐように範之介は玄武館の塾頭になった。
◇攘夷活動に身を染めて行った
尾高新五郎、渋沢栄一、千葉の塾生である範之介、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎など壮士69名で文久3年
11月12日に上州高崎城を襲撃して奪い、更に兵を得て、横浜の夷人を襲撃する計画を建てた。
しかし、高崎城を一時奪う事が出来ても、その後の行動に無理があると、中止した。
しかし、これを機に過激な攘夷運動の活動の渦に入っていった。
一方、玄武館の門人には江戸に屋敷を構える全国各藩の藩士達も多く、ペリー来航や桜田門の変など激動の世の中、
情報の渦が玄武館の中でも飛び交った。
取り分け千葉周作が水戸藩に招かれて出仕したことから、千葉の門下生に多くの志士たちが集まった。
範之介は攘夷に心動かし、西洋人のために日本が植民地化されることを恐れ、尊皇攘夷運動に走った。
範之介は水戸藩の武田耕雲斎、田丸稲右衛門、藤田小四郎などと深く交わりを深めた。
元治元年(1864)3月上州筑波山に水戸藩攘夷天狗党が攘夷延期を不満として挙兵した時に、範之介は資金面の協力
と同志を集め天狗党に参加しようとした。
天狗党は水戸藩や幕兵と戦い、一橋慶喜に尊皇攘夷の実践にあり、乱を好むものではないと訴える目的で上洛したが、
その意志が伝わらずに途中の加賀藩で降伏し、武田耕雲斎、藤田小四郎以下多くが処刑されてしまう。
(幕末水戸藩の尊皇攘夷で殉職した偉業を顕彰し、理解を深めるために「回天館」として遺跡が展示されている)
範之介は天狗党と袂を分け、一派を連れ、利根に航して横浜の夷人を襲う為、鹿島に行こうとする時、幕史に囲まれ、
戦ったが、勝ち目なく解散して流れた。
元治元年10月16日夜陰にまぎれて江戸に潜入して深川船手屋の小林権左衛門に匿われたが、程なく、市中警護の
新徴組に包囲された。
やむなく範之介と岩名昌之進は抜刀して戦い、新徴組6名に斬り付けたが遂に力尽き両名とも斬殺された。
範之介は21箇所、岩名には13箇所の傷を受け凄惨な姿で絶命したと言われている。
範之介は31歳、二人の屍体は千住小塚原の回向院下屋敷に棄葬された。
当然、この訃報は左入の小峰の実家にも伝えられた。
◇範之介の最期
◇水戸天狗党の関わり
敦賀で幕府に降伏した、天狗党の志士達823名は
越前敦賀浜にあった16棟のにしん倉に押し込められ
残酷非道の処遇に会い、353名の志士達がこの倉から
引き出され敦賀松原の露と消えていった。
斬死をまぬがれた志士達の殆どはこの倉で錮死(ふさ
がれなくなる)或いは幸運にも故郷へたどりついたものの
再び獄に繋がれ無念の死を遂げたのである。
この残酷非道の処刑は結局のところ、幕府そのものの
滅亡を招き、志士達の尊皇攘夷の大儀は死をもって
達成されたのである。
・・・以上、水戸「回天館」掲示板より抜粋
神田お玉ヶ池のほとりにある
北辰一刀流の玄武館
幕末に飾られた稲荷神社だけが残る。
水戸 「回天館」(参考)
◇ 桜田門外の変、決別の宴
当時書かれた関係者の寄せ書き*も、持って帰り、
左入村の小峰の実家に隠しておいた。
明治の始めの頃、渋紙の敷物に、鋏を入れて
使ってしまった。
範之介はそれ以外にも、文書など実家に持ち込
んで預けたが、後難を恐れ、全部焼いてしまった
そうである。
・・・長谷川伸「佐幕派史談」より
範之介の尊皇志士として歴史を動かす、最前線に
居たことを物語るものである。
しかし、幕吏の厳しい追求から、範之介の死と共に
記録は一切闇の中に葬られてしまった。
*寄せ書きは本田覚庵が久次郎から見せて貰い、
写したものが一通、小島資料館に伝わっている。
桜田門外の井伊大老襲撃を決行する前に品川で決行者が集まり訣別の宴が開かれた。
範之介はその席に有志家として列席している。
桜田門