東海道品川宿紀行
江戸を発ち、東海道を西下して間もなく品川宿に着く。
安政4年(1857)制の江戸切り絵図を見ると、この付近の東海道は殆ど江戸湾に面している。
現在の品川駅辺りも恐らく、江戸湾の海中である。
東海道は江戸と京を結ぶ人、物の往来も多い大事な要路である。
中でも品川宿は、寺社も多く、歴史文化の拠点として東海道の往時の町並みを物語り、そっくり幕末の空気を残しているように
感じられる。
現在は埋め立てられ、海岸は遥か彼方であるが、幕末当時の地形をイメージしながら、旧東海道を中心に其処で
起きた事件をも拾い、歩いて見た。
□.御殿山英国公使館焼き討ち事件
景勝要害の丘に建てられる公使館を焼き払い、幕府と外国間で紛争を起こさせ、幕府に攘夷を仕向ける。
高杉晋作を中心に長州の浪士が「御楯組」という攘夷決行の決死団を作り、文久2年(1863)12月12日に
実行され、公使館は炎上した。
隊長)高杉晋作、副将)久坂玄端、火付け役)井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、護衛役)品川弥二郎、堀真五郎
、
斬捨役)赤根武人、白井小助等吉田松陰亡き後の松陰の思想を継ぐ門下生で決行した。
寺島忠三郎が「山鹿流兵学」を学んだ古来から軍用放火材として桐炭の粉末に煙硝(えんしょう)を入れ、タドンの大きさ
にし丸く紙で包み、導火線に繋げる物を準備し、使われた。
現代の自爆テロのはしりではないが、単なる放火でなく、組織的、計画的な「焼玉作戦」によるテロであった。
◇その舞台裏となった「土蔵相模」
京浜急行北品川駅に近い、旧東海道沿いにある
Family Martが「土蔵相模」跡の看板が立ち、判り易い。
元々妓楼で、長州の過激な攘夷集団が此処を拠点に
集まり、テロ計画は実行された。
最初に計画したのは外国公使襲撃事件であったが、
神奈川の下田屋に集結した所、幕束に見つかり未遂に
終わる。
その反省を踏まえ、「公使館を焼き払い」は秘密裏に進め
られ、実行当日此処で参加した者に晋作から計画の内容
を告げられる。
一行が此処を出たのは午前1時過ぎ、雪まじりの風雨の
悪天候の中、此処から御殿山に向かった。
◇桜田門外 の変でも使われた
安政7年(1860)3月3日桜田門外で井伊大老を襲撃した桜田門外の変が起きた。
その襲撃した水戸浪士を主体の17人が訣別の宴を此処土蔵相模で開き、その時の寄せ書きの写しが、小島資料
館に残されている。
寄せ書きは有志家として、出席した真田範之助が八王子の実家(小峰家)に持ち帰ったが後難を恐れ、処分された。
処分前に小峰家に訪れた本多覚庵がその写しを取り、小島家に渡ったと推測されている。
以上の通り、「土蔵相模」は大きく日本を動かした攘夷家の謂わばメッカともなったのである。
◇大横町
旧東海道から土蔵相模から西に下った所に、御殿山へ向かう
起点となる大横町である。
雪まじりの悪天候の中、晋作以下の浪士達が焼玉を抱え、この
辺りを通り、御殿山ヘ向かった。
昭和初期まであった土蔵相模
なまこ壁が一際際立っている。