新選組誕生
1.何故多摩地方から新選組が誕生したか
2.剣士誕生のきっかけ
3.天然理心流の普及
・佐藤道場(ご案内)
・天然理心流宗家から多摩普及の流れ図
4.剣術稽古
1)日野宿の生い立ち
2)土地柄 と風土
3)戦略拠点と帰属性の高さ
4)八王子千人同心 との繋がり
徳川将軍の最後の逃げ道として、作られた甲州街道は攻められると半蔵門まで突破されてしまう。
そこで八王子の千人同心と日野の満願寺で押さえることが、戦略上の重要な役割をもっている 。
日野宿は多摩川に掛けられた日野渡しなど、要路が地形的な壁となり,とりわけ将軍家は当地を
大事にした。
「王手は日野の万願寺」盤台将棋で使われる言葉も江戸を守る大事な拠点として表している。
幕府から 厳しい税金の取り立ても無く、幕府に対する帰属性も高く徳川260年のうち多摩地区では
1回も一揆をおこしていない。
慶応2年では外部からの一揆を土地住民が押さえたことなど、幕府と地域住民との絆は深いもので
あった 。
幕府軍として最後迄戦い抜いた心生きはこんな背景から生まれた
「甲州道中」は内藤新宿・八王子・甲府を経て下諏訪で中山道に繋がる全道程55里(216km),45宿あった。
参勤交代で通行したのは飯田(脇坂氏後堀氏)・高遠(内藤氏)・高島(諏訪氏)の三藩のみ。この他甲府勤番や
八王子千人同心、お茶壺道中(将軍の茶を 宇治から江戸へ)があった。
一方では甲府からの絹織物、果物、江戸西郊の農作物や多摩川の鮎等の物資や富士山など参拝するため
の信仰の道でもあった。
戦国時代、日本では人が大きく動いているので、今の日野の宿も戦国末期に作られている。
江戸時代は名主が本陣と脇本陣で二人居て、交代で支配、その下に20人の組頭が付いて合計40人で構成
され、民主的な支配が明治直前まであった。
徳川家が武田家来と北条家来を配して、甲州に備えたものである。
現在の八王子にある千人町はそのなごりであり、八王子千人町に『千人隊』が要所を守っていた。
(1)公務の中心
武蔵と甲州との国境警備、治安維持や江戸防衛の任に当たる機能から発足した八王子千人同心は後には将軍の日光社参始め、
蝦夷地開拓の先駆まで行い、幕府への忠誠世に名高い「八王子千人同心」となる。
彼等は平時は農耕に従事しながら、軍事訓練し、幕末には将軍上洛の供奉長州征伐 への出兵にあたる。

(2)千人同心との関わり
日野宿にも30人の 千人同心がおり、更に八王子では「中島登」、「横倉甚五郎」など千人同心から新選組へ入隊する者
も居る。
「井上兄弟」
井上家の兄松五郎と弟源三郎兄弟は、近藤周介に入門し、天然理心流の剣術免許をゆるされ、後の佐藤道場の中心的
存在になる。源三郎は新選組六番隊隊長として活躍する。兄松五郎は代々の千人同心を継ぎ、14代将軍家茂の上洛に動員
され、壬生に滞在の近藤勇、土方歳三、源三郎など相談に応じている。
「土方勇太郎」
土方勇太郎は代々の千人同心で天然理心流に土方歳三と共に同じ時期に入門、歳三生家で歳三と剣術を磨いた中である。
勇太郎が日光勤番時に歳三と会っており、「宇都宮の戦いで指揮鼓舞のため逃走兵を斬った」「今度はとても帰れない」など
歳三の話がエピソードとして残されている。
このように同郷、天然理心流の門下生など共通の環境で千人同心とは深く関わっている。
1.何故多摩地方から新選組が誕生したか
幕府に忠誠を尽くす、農民主体の武術集団が何故、この多摩地方から生まれたかを検証してみよう。
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一方、 日野宿の住民の性格は何故か、長持ち、長続きせずじっくりやらない所がある。
これは日野に甲州街道あり、多摩川があり、人、物が良く流れる所であるから 、新しい物にどんどん飛びつくが
余り長持ちしない。
『新し物好き ・諦めの良さ・足の引っ張りあい』に代表される風土はこうした事が背景にあり、今でもこの伝統は
息づいているようである。
こうした素地から幕末から 明治にかけて最初に作られた身分差別のない農民主体の組織集団が生まれ、
春日隊が誕生した。
5)佐幕とするその理由は
崩壊寸前の幕府の矢面に立ち、新選組を支えた強烈な佐幕思想から成り立っている。
その原点として身は低録の郷士(侍百姓)ながら、徳川家に拾われ同家の「恩」を痛感する甲州武田の尚武(しょうぶ)の気風を受け継ぐ
千人同心達であること。
その八王子千人同心と新選組の出身者がほとんど一心同体の中で、武田家遺臣の徳川家への報恩思想が脈々と生きてきたこと。
更に徳川260年の歴史を支えた多摩地方の幕府と地域住民との絆の深さなどが重なり合って、新選組を支える強烈な佐幕思想に
繋がって、いるものと思われる。