浦賀文化センター
浦賀警察から更に歩を進めると進行方向右側の高台に浦賀センターがある。
ここでしっかりと、中島三郎助を学習し、これからの史跡巡りの行程にイメージアップさせる。
| 2歳の与曽八に短刀を贈り、家族への訣別の遺書(抜粋) |
此短刀の与曽八江かたみとして相贈候(?)
我等事多年之病身って 若死にいたすべきの処 はからずも
四十九年の星霧を経しは天幸といふべきか、こたび決戦
いさぎよくうち死と覚悟いたし候、与曽八成長之後は
我が微意をつぎて徳川家至大之御恩澤を忘却いたさず
往年 忠勤をとくべき事頼入候、 以上
明治2年3月3日 中島三郎助 |
生々しい遺書他が展示され、思わず息を止める。忠誠一徹な
三郎助の姿を見る事が出来る
ペリーが来航した時、三郎助は応接掛として米艦に乗り込み、折衝
の任にあたったが、それこそ丹念に艦内を見て回った。
「ペリー日本遠征記」では三郎助はせんさく好き根堀り葉堀り見て
歩く好感の持てない人物として描かれていた。
しかし、このせんさく好きの実機見聞が後々の洋式軍艦の国産に
遺憾なく発揮された。
寛永7年(1854)幕命によって日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」建造に
大いに約立ち、三郎助が建造の主任技師として腕を振るったのは
言うまでもない。
安政2年(1855)、三郎助は勝海舟・榎本武揚等と共に、長崎の海軍
伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸
海軍操錬所教授方として後進の指導にあたった。
浦賀にドックを作り、咸臨丸の修理など海国日本の造船・操船の第一
人者、礎を築いた先駆者である。
心から浦賀の地を愛し、浦賀の人
を慈しんだ三郎助。
幕末から明治維新にかけて、浦賀
を海国日本の檜舞台として活躍した、浦賀奉行所一与力であった
中島三郎助の生涯は当地に深く
根を降ろし、敬慕の念を持って
何時までも語り継がれる人物である
ことを改めて認識した。
文政4年(1821)浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に
誕生する。モリソン号事件やペリー来航など海防問題に強い関心
を持ち、日本の直面した国際危機の中で国の将来を憂い、幕府
のとるべき、重要な方策を進言したり、国防上必要な軍艦の建造
や砲台の築造を命じられ、一与力の身分にありながら、幕府の
枢要な国務に携わった。
天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として
剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に
大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術も備えたスペシャリ
ストであった。
大政奉還して幕府崩壊し与力・同心も解散するなか、幕臣として
主家徳川に殉ぜんと決意し、長男恒太郎(22歳)と次男英次郎
(19歳)および腹心の同心らと榎本武揚と行動を共にして江戸を
脱出し、函館五稜郭に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に
千代ケ岡に散下した。
明治2年(1869)5月16日 49歳
鳳凰丸(ほうおうまる)
舟の長さ36M 幅9M、排水量600t 砲10門を備え、帆は幕府の所属を
表す黒の横一文字、船体は朱塗りに黒のストライブの入った華麗な
物であった。
外国の技術指導なく、造船書だけを頼りに大型軍艦を作り上げてしまう
ことに、今日の造船技術の素地があったのだと思うが