□横浜開港と攘夷活動
徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。鎖国か開国か二分する意見に
国内が騒然とする中、力の弱まった幕府は国論を統一する力を失ってしまった。
その間誕生した井伊大老の強圧政治で日米修好条約が結ばれ、幕府は開港の適地として横浜を選び、外国に
対して門戸を開き、新しい時代を迎える。
一方では明治維新の原動力ともなった、尊皇攘夷の運動で過激派浪士により、井伊大老が討たれ、更に国防の
ためには「夷狄(いてき)撃つべし」と多くの外国人が襲撃された。
横浜と周辺で起きた事件を背景に開港の地となった横浜を中心に幕末の姿を追ってみた。
◇開国と幕藩体制
ペリー来航による外圧からの開港が迫られる中、徐々に弱まった幕藩体制から、倒幕活動にまで及んでいく。
その間の出来事を流れ図で整理した。
1)日米通商条約の調印と朝廷〜幕府間の対立
異国船来航により、開国か鎖国か分裂する中、長い列島を守るため、有力外様含め、協力と同意が必須で国論
を統一する必要があった。この機会に外様や朝廷が活発な議論を生み、徳川単独で出来た外交問題も体制が
崩れ、幕府が一々朝廷に伺いをたて、朝廷が指示を与える慣習が出来てしまった。
そんな背景の中で勅許のないまま井伊大老が日米修好条約の調印を強引に押し進め、反対者には弾圧する所
謂「安政の大獄」が行われ、吉田松陰、橋元左内らが非業の死を遂げた。
こうした井伊の強圧と朝廷を無視した条約調印は孝明天皇も激怒し、朝廷、幕府、の対立が先鋭化してくる。
2)激化する尊皇攘夷
朝廷が政治的発言力を強化すると、尊皇攘夷を叫ぶ浪士や志士の過激な活動が展開される。天皇は攘夷を臨
んでいる、攘夷は即ち尊皇であり、これに反対するする者は逆賊であると短絡的な考えでテロが横行する。
過激な攘夷活動は長州藩を中心に倒幕活動にまでエスカレートし、中川宮朝彦親王を担ぎ、8.18のクーデターを
起こすが失敗する。その後、幕府は長州征伐などが行われるがかえって幕府は疲弊してしまう。
保守的な攘夷主義者の孝明天皇は終始幕府支持の態度を変えなかったが、天皇の急死(毒殺節もある)から
明治天皇に変わると倒幕派の活動が一気に高まり、王政復古、倒幕の流れに押し流されていく。
3)外国人襲撃
井伊大老が桜田門外で水戸藩士のために襲撃され尊皇攘夷の運動がにわかに活発になってくると、外国人に
対する殺傷事件が益々エスカレートしていき、外交関係にも大きく影響していく。
生麦事件のように、被害者はイギリス、加害者は薩摩藩でありながら、両者の間に挟まれながら、幕府は雄藩を
制御する術を失っていた。結局実質的な賠償責は幕府が背負う様な形で解決の道が開けるが実力不足を暴露
する結果になってしまった。
◇尊皇攘夷
ここで、幕末期に良く出てくる「尊皇攘夷」は以下のように説明されている。
尊皇論と攘夷論はそもそも別のものである。
尊皇論は身分制の頂点にある天皇を尊崇する思想である。
攘夷論は自国を中華(国の真ん中)として廻りの国は野蛮の国で夷狄として排撃する思想であり、自分達から見ると
見下した考え方である。
尊皇攘夷論は幕藩体制社会を再編成する理論として形成され、最初の頃は幕藩体制を如何に継続して、外国との
国難を如何に乗り切るか、それが途中から変わってきて、幕府が力が無くなってきて、幕府を倒して、新しい社会を
作るに変わっていく。
つまり、同じ言葉でも時代背景によって、その中身は変わっていくのである。
幕藩体制を解体し日本の近代国家の端緒となる明治維新を実現する思想的原動力となった。
□井伊直弼
開国か攘夷か250年の徳川基盤も揺るぎ始めた幕末に、幕府の運命を一身に背負いながら開国の道に辣腕を振るっ
たのがこの彦根藩主・大老井伊直弼であった。
幕政に絶大な権力をふるって、アメリカと修好通商条約を結び、今日の横浜開港の基盤を作った。
しかし、条約調印に反対する反幕府活動に対して安政の大獄と言われる力での弾圧で攘夷派志士を煽り大老就任か
ら2年足らずで桜田門で横死した。
◇2度の首落とし
伊井掃部直弼の開港功績を記念して銅像を建立するため、明治5年横浜〜新橋間に鉄道が敷かれたおりの機関車
用の水池があった鉄道山とも言われたこの丘を、旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、掃部山公園と名
付けた。しかし、銅像建立に当たり新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。
当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではないが藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、
幕府の開国政策には反対していた。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感
情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。
周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落
されてしまい、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。
長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。
銅像は昭和18年戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。
まさに受難の歴史を背負った銅像なのである。
その姿は正四位上左近衛権中将の正装でその重量は4トンと言われ、公園は春は花見で賑わい、夏には虫の音を
聞く茶会が催される。
野毛、掃部山公園の井伊の銅像