| 土方勇太郎 |
| 1,プロローグ |
| 日野市石田付近地図 |
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「土方勇太郎って誰?」その存在について知る人は少ないであろう。 土方歳三の周りに居た一人であるが歳三が余りに有名になり、その存在 の大きさに隠れてしまっているのであろうか?。 揺れ動く幕末の時期にこの多摩地域から生まれ、同じ土方姓の二人の剣士 達がどう関わり合いあったか興味がある。 地図にもある通り、日野高校の隣に土方の菩提寺石田寺があり、モノレール を挟んで土方資料館があるがこの辺りは土方姓の一族が沢山住んでおられる。 土方勇太郎と歳三はその土方家の一族として、ほぼ同じ時期に天然理心流の 門を叩き、幕末の世界を一方は千人同心として全うしたが、一方は新選組として 活躍し、天下にその名を轟かした。 戊辰戦争も後半を迎えるころ、二人があっており、今は亡骸が見つからない歳三 の墓石の傍らに肩を寄せ合うように勇太郎の墓がある。 最近、勇太郎の行動を示す、幾つかの資料が見つかり、同行の誼で歳三との関わ りがあったことが地元で披露された。 以下勇太郎の姿 と歳三とのエピソードを追っかけてみた。 |
| 2,勇太郎の履歴と歳三との関係 |
| 土方勇太郎は歳三より6年遅い天保12年(1841)浅川を挟んで石田村の向かいにある新井村(日野市新井)に八王子千人同心 土方甚蔵の長男として生まれた。 安政6年(1859)3月、歳三と共に天然理心流に入門した剣術仲間であり、歳三らが浪士組として上洛した文久3年(1863)には 勇太郎も井上松五郎(源三郎の兄)と共に千人同心として将軍に随行し京都で歳三や源三郎に会っている。 勇太郎は安政5年7月、父に代わって石坂弥次右衛門組千人同心となって以来(慶応元年11月世話役となる)、幕末のの千人 同心が経験した数々の出来事に遭遇し、遂に慶応4年(1868)の幕府瓦解の時を迎える。 この時の勇太郎と松五郎は千人同心の主要任務である日光勤番に従事し、それが江戸幕府最後の日光勤番となった。 歳三が宇都宮から会津へ転戦するときに日光勤番の勇太郎と会い、生家に伝言を頼み会津へ向かったと言われる。 その後、歳三は明治2年(1869)5月11日、新政府軍による、箱館総攻撃で35歳で戦死し、勇太郎は帰還したが明治3年12月、 30歳の短い生涯を閉じた。 両者の墓は石田寺にある。 |
| 1)佐藤家表門 |
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正面が佐藤家表門 左手が佐藤道場と言われた剣道場跡 佐藤道場の広さは三間(5.46m)四方で 羽目板には剣道具をかける 名札が付けてあったという。 (随分せまいなあ〜) 明治41年に此処を改造して、日野郵便 局舎に変わっている。 日野宿の中心をなす名主の家だけに どっしりとした家構えが伝わってくる。 佐藤彦五郎が設けたこの道場で天然理心流の 四代目の宗家近藤勇を出稽古で迎え、土方歳三、 沖田総司、井上源三郎等の新選組の隊士や 八王子千人同心達の剣の修練所になった。 土方勇太郎もこの仲間たちと一緒に剣の道を 磨いた同門である。 その入門時期は以下の"天然理心流神文帳"に 記録されている。 |
| 2)天然理心流神文帳から |
近藤勇の三鷹市の菩提寺にある「天然理心流神文帳」には安政六年(1859)三月九日付に以下の記述がある。
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